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教信上人胴塚 / 岩鍋 / 山崎県 / 笛石山 / 安積氏 / 近世歴代山崎藩主 / 山崎藩池田家 / 池田騒動 / 長水城主宇野氏余話

教信上人胴塚
千種町千草の商店街の一角に宝篋印塔が建っています。地元では、教信上人の胴塚と呼び習わしており、今日もなお手厚くまつられています。
教信上人は、『今昔物語』によると平安時代初期の人で、山陽道賀古の駅家(うまや、現在の加古川市野口町所在の古大内遺跡)の北に流れ着き、日頃より口称念仏を唱え肉食妻帯した僧として描かれており、日本浄土信仰の祖と位置づけられています。
地元の言い伝えによりますと、布教のため廻国中であった教信上人は貞観8年(866年)88才をもって千草で入滅しました。教信上人の庵のあった加古郡野口の里人が遺体を引き取りに来たのですが、千草の人々は名残惜しんで引き渡さずに争いとなり、翌年国吏の裁定が下り、頭部を野口に送り骸(胴体)は千草に葬ることになったそうです。
西蓮寺の千草念仏は、かつては旧暦の3月9日から15日まで盛大に行われていましたが、現在は4月第3日曜日に行われています。
 

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岩鍋(いわなべ)
江戸時代後期、下原重仲の著述になる『鉄山秘書』に採録された「金屋子神祭文」には、播磨国志相(しそう)郡岩鍋に製鉄の神「金屋子神」が降臨し里人に製鉄の技術を伝授した後白鷺に姿を変え西方さして飛び立った、とあります。この「岩鍋」とは現在の千種町岩野辺に他なりません。当時、千種の製鉄技術が高く評価されていたことの現れでしょう。
 

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山崎県
こう書くと「なにいうてんの!」と突っ込みを入れられそうですが、明治4年7月15日、廃藩置県に際し山崎藩を廃して山崎県が設置されたのです。県庁は、旧山崎藩庁に置かれました。しかし同年11月2日には姫路県に統合されてしまいますので、存続したのはわずかに3か月あまりの期間でした。
 

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笛石山
笛石山は、千種町河呂に位置する標高894メートルの山で、中腹に巨岩が見えていますが、この岩には長水城落城にまつわる悲話が残されています。
織田信長と敵対することとなった宍粟の領主宇野祐清と家督を譲り隠居していた父政頼らの立て籠もる長水城は、天正8年5月8日、織田方の羽柴秀吉軍の攻撃を受け、あえなく落城します。落城寸前、縁戚関係にある作州新免氏を頼って城を脱出した祐清一行は、艱難辛苦の末、紅葉橋を経て漸く千種町岩野辺に至ります。笛石山には火急の知らせを受けていた新免氏が到着しており、巨岩上で合図として笛を奏でますが、先回りした討手と見誤った主従はもはやこれまでと、岩野辺字大寺にあった小堂に入り、哀れ一族自害して果てました。このため、笛を奏でた石を「笛石」と呼ぶようになったそうです。
政頼の遺児とされる船越山瑠璃寺の真賢上人建立になるという、大寺の主従の供養塔には、今も香華が絶えません。
 

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安積(あづみ)
市内一宮町安積の、国道29号の安積橋の西詰に安積氏の居館跡があります。現在も、土塁の一部と屋敷神の森が残っています。
安積氏は、鎌倉時代の再末期、大塔宮護良親王の幕府打倒の令旨に呼応して挙兵したことにより、歴史の表舞台に登場します。安積氏自身は「播磨国御家人」を名乗っていますので、元来は鎌倉幕府側の立場にあった武士です。また、安積保の下司・公文職とも名乗っていますので、荘園化した公領の現地管理責任者といったところでしょうか。
安積氏は、その出自を陸奥国安積郡としていますが、安積郡は「あさか」と、普通苗字の安積は「あさか」と読みますので、「あづみ」と発音するのは特異な例なのでいささか気になります。鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』の江戸時代の寛永3年の刊本には、「安積」にはいずれも「アヅミ」とルビが振ってあります。
ともあれ、挙兵した安積氏は、いわゆる建武の新政側について各地を転戦し、確固たる基盤を固めます。一時は飾東郡姫山、現在の姫路城天守閣群の建つ山にも館を保持していました。その後佐用郡に興った赤松氏が播磨国の守護となるに及んでその麾下に入り、宍粟郡において勢力を保ち、戦国期にあっても時勢を見極め動乱の波に飲み込まれることなく生き延びます。江戸時代前期には地侍として時々の領主から知行を得ており、武士としての職能は保持していたようです。
 

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近世歴代山崎藩主
△池田家 (外様) 元和元年から寛永17年まで 1代
池田輝澄 石見守 3万8千石、寛永8年佐用郡2万5千石加増
△松井松平家 (譜代) 寛永17年から慶安2年まで 1代
松平康英 周防守 和泉国岸和田より移封 6万石 石見国浜田へ転封
△池田家 (外様) 慶安2年より延宝7年まで 3代
池田恒元 備後守 備前国児島より移封 3万石(千種川筋を除く)
池田政元 豊前守  
池田恒行   岡山藩主池田綱政子
△本多家 (譜代) 延宝7年から 明治4年まで 9代
本多忠英 肥前守 大和国郡山より移封 1万石 大番頭
本多忠方 肥後守  
本多忠辰 肥前守  
本多忠尭 大和守  
本多忠可 肥後守  
本多忠居 大和守  
本多忠敬 肥後守  
本多忠鄰 肥前守・大和守・肥後守、大番頭、大坂定番
本多忠明 肥後守 山崎藩知事
 

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山崎藩池田家
元和元年(1615)の池田輝澄入封に始まる近世山崎藩の歴代藩主には、池田・松井松平・池田・本多と4家があります。この中の前後の池田家は、いずれも姫路城主であった池田輝政の家系ですが、系統に若干の違いがあります。先の池田家の池田輝澄は輝政の8男で、後の池田家は恒元・政元(政周)・恒行と続き3代で無嗣断絶しますがこれは輝政長男の利隆の系統につながります。利隆は輝政の先妻中川清秀の女の子、輝澄は輝政の後妻徳川家康の女督姫の子なので、輝澄は3代将軍徳川家光の従兄になります。
 

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池田騒動
寛永年中、山崎藩主池田輝澄に駿府城24万石に移封の奉書内証があったのですが、参勤道中に発病し、沙汰止みに。江戸にて加療中の寛永16年(1639)、国元で起こった家中の下士同志の金の貸借に端を発した諍いが、家付家老と新参家老との対立抗争に発展します。世に言う池田騒動の勃発です。姻戚関係にあった林田藩主建部政長が仲裁に入りますが、双方納得しません。ついに、翌寛永17年7月24日、幕府評定所裁定により改易となり、輝澄は因州鹿野(鳥取県鳥取市鹿野)にて堪忍料1万石を与えられることになります。そして寛文2年(1662)同地においてその生涯を終えています。
ところで、輝澄が改易の処分を受けたその日、輝澄の妻の実家である讃岐高松藩生駒家も家中騒動のため改易処分にあっています。輝澄の奥方としては、実家も婚家も同時に没落したわけですが、配所では輝澄との間に子供をもうけているようなので、鹿野での生活は案外平穏な一時であったのではないでしょうか。
なお、輝澄の嗣子政直は、寛文2年播磨国神東・神西郡内において新知1万石を与えられ、福本藩(兵庫県神崎郡神河町福本)を興しており、家名断絶は免れています。
 

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長水城主宇野氏余話
市内には、天正8年5月に族滅した長水城主宇野祐清等の忘れ形見に関する伝説がいくつか残されています。ところが誠に興味深い史料が意外なところに残されているのです。
筑前国福岡城主である黒田家の分限帳を集成した『黒田三藩分限帳』の「慶長七・九年知行書附」に、知行160石として「山崎茂右衛門基久 播磨宇野民部大輔祐清子」とあるのです。祐清の子といい苗字を山崎とするのもできすぎた話と、目を疑うような内容ですが、筑前黒田家といえば、家祖如水黒田官兵衛孝高は長水城落城後の天正12年に豊臣秀吉から宍粟郡を与えられており、宍粟に居住したと記録にあります。しかも家中には栗山大膳や小寺休夢齋のような播磨出身の者が一杯いるので、出自を偽ることは不可能に近いでしょう。この山崎基久の家系は今も連綿と続いているようです。